漫画やゲームの舞台設定の時代的-ジャンル的な傾向を巡る雑感。
補論として、「異世界ものは植民地主義的発想に依拠しているのか」という問についても。
※目次
1. 現代日常もの: 舞台探訪との関わり
2. 異世界もの: 成立と展開の内的事情
3. 西洋と東洋: 男性向けと女性向け
補論1: 異世界ものとオリエンタリズムの関係?
補論2: 異世界小説を、より広い文脈の中で
ある作品が、どのようなシチュエーションで物語を展開するか。ゲームやアニメが、どのような地理的設定を好んで取り上げているか。そこには時代的な潮流や、ジャンルごとの違いがしばしば見出される。
今世紀の最も大きな変化の一つは、現代日常ものから洋風異世界ものへのシフトだろう。
【 1. 現代日常もの : 舞台探訪との関わり 】
00年代の漫画やアニメはしばしば「現代の」+「日本の」+「都市部の」+「若者の(とりわけ学生の)」+「日常生活」を取り上げてきた。そういった日常系現代学園ものは大きな人気を博し、00年代オタク系文化を特徴づけてきたとされる。漫画分野では、萌え四コマ『あずまんが大王』(1998-2002)の頃から大きなプレゼンスを持つようになり、そこから『らき☆すた』(原作2004年開始、アニメ版2007年)、『WORKING!!』(原作2005年開始、アニメ版2010/2011/2015)、『けいおん!』(原作2007年開始、アニメ版2009/2010)、『ご注文はうさぎですか?』(原作2011年開始、アニメ版2014/2015/2020)のように知名度の高いアニメ化作品を多数輩出してきた。
ゲーム分野でも、とりわけ美少女ゲーム(アダルトPCアドヴェンチャーゲーム)が、現代学園日常ものを牽引してきた。美少女ゲームは高品質なCGワークの魅力によって90年代から00年代のオタク文化の最先端であったが、それと引き換えに背景画像の枚数が制約され、舞台設定としては学園内に集中する傾向があった。『同級生』シリーズ(1992/1995)から『To Heart』(1997)に始まり、『とらいあんぐるハート』シリーズ(1998/1999/2000)、『月は東に日は西に』(2003)、『乙女はお姉さまに恋してる』(2005)、『はぴねす!』(2005)など、いわゆる「学園恋愛系」(白箱系)タイトルが毎月大量に発売された。さらに、00年代後半以降、ゆずソフトやWhirlpoolによって主導されて学園恋愛系パラダイムが強固に確立され、10年代までその影響は続いた(※その経緯については拙稿「アダルトゲームにおける学園恋愛系」、「学園恋愛系ブランド群」を参照)。
もちろん、その一方で、現代日本以外の舞台設定(海外、宇宙、近未来等)、あるいは非日常的な状況(SFやバトルなど)を主題とするタイトルも多数存在した。しかし、現代日本の日常生活の風景を舞台とする作品が大きな比率を占めていたことは確かだろう。
今世紀の漫画やアニメは作画品質や設定密度を飛躍的に高めたが、そうしたクオリティを確保するうえで、実在のロケーションを利用することが増えた。すなわち、「実在の具体的な土地と結びつけることによって、作中の設定を掘り下げる」、「ロケハン(舞台探索)によって、その都度の演出のために効果的な場所(背景レイアウト)を選び出す」、「精密な背景作画の資料として、ロケハンした写真を利用する」といったメリットがあったと考えられる。
そうした舞台設定の緻密化=リアル化は、ユーザー側の活動をも触発した。すなわち、「聖地巡礼(舞台探訪)」である。物語の舞台となった土地を実際に旅行し、作中で実際に描かれた場所を訪れる。それは、作品の雰囲気に近付くためのファン活動でもあり、作品で描かれた状況に対する理解を深めることにもつながり、さらには権利者や有志による現地イベントが開催されることもある。そうした活動は、90年代以前からも存在した筈であるが、それが大きく注目されて広汎に普及するようになったのは、基本的には00年代以降のことと思われる(※おおいしげん氏が主導する「舞台探訪アーカイブ Wiki*」は、そうした現地設定の広汎なリストとそれらを探訪した記録が大量に掲載されている)。
【 2. 異世界もの:成立と展開の内的事情 】
しかし、2010年代の中で、状況が大きく変化してきた。ネット発の小説による、いわゆる「異世界もの」の大流行だ。その典型的な設定は、「現代日本人の主人公が、現代人としての意識と知識を保持したまま、西洋中世風(または古典的なJRPG風)の異世界に、単独で転移or転生し、その際に与えられた特殊なスキルを活用しつつ、新たな生活を展開していく」というものだ。作品によっては、集団での転移(例えば学校の一クラス全員)であったり、現代人以外が転生したり(例えば歴史上の有名人)であったり、過去への転移(例えば戦国武士の中に現代人の意識が入る)であったり、人間以外の物体に憑依していたり(例えば意識のある剣)もするが、上記のような基本枠組が共有されたうえで、ネット小説投稿サイトでの競作活動が大規模に展開されるようになった。
そしてその中から、出版社に勧誘されて商業刊行される作品も多数現れた。さらにそれらが現代オタク産業のメディアミックスに乗って漫画化展開(コミカライズ)されたり、TVアニメ/ネットアニメに原作を提供したりするようになった。「ネット小説大賞」のようなイベント群も、それを後押ししただろう。私は詳しくないが、異世界もののネット小説が商業出版されるようになったのは10年代前半(2013年頃?)から急増し、10年代後半(2015-2016年?)にはコミカライズが増加し、アニメ版も2019年頃から多数放映されるようになった、というくらいの流れだろうか。アルファポリスやモンスターコミックスのように、異世界ものに特化した漫画ブランドも現れている。
これらの「異世界」の特徴は、西洋中世のイメージをアレンジしたTRPG-JRPGのそれと酷似している。すなわち、王/貴族/平民/奴隷といった身分制。城塞都市に生きる人類と、森に住まう亜人や魔獣、さらにはダンジョンに生きるドラゴンや魔王など。人間たちは西洋人のような名前と外見で(それに対してアジア的な「東方」出身の人物も登場する)、建築物や食文化なども西洋風。金貨/銀貨と職能組合(ギルド)による比較的素朴な経済活動。文明水準は、火薬(銃器)が実用化されていない程度。神や妖精のような超自然的存在や、魔法(魔術)が存在する。さらには、「スキル」「ステータス」などのゲーム的なガジェットを明示的に取り込むことも一般化した。気候は総じて温暖。現地人たちは、奴隷制を自然に受け入れているといったような違いはあるものの、基本的には現代人と似たような社会性や意識構造を持っている。
異世界ものの大流行をもたらした要因は、かなり複雑なものだと思われる。「アマチュアたちによるネット小説の自発的投稿」。「JRPG風の共通枠組により、参入が容易になる」。「大量の競作を通じて内容面でも急速に発展し深化していった(投稿サイトの機能もそれを促進した)」。「売れるコンテンツを出版社が求めて掬い上げた」。等々。
現代(現実)世界ではなく、異世界が舞台になったことにも、様々な事情があるだろう。「現代社会が進取の魅力を失い、仮想的なフロンティアとしての異世界が求められた」。「物語の初期設定を自由にアレンジしたうえでのシミュレーションをするのに、異世界での再出発は好都合だった(※○○スキルを与えられて異世界に転生したら……という思考実験的創作)」。「オタク的趣向(いわゆる属性)の拡大と多様化により、獣人キャラやサキュバスヒロインやドラゴンキャラを大量に登場させることが求められた」。「JRPGの普及により、中世西洋風の世界像や『魔王』『冒険者ギルド』等のガジェットが広く共有されるようになった」。等々。
異世界ものの小説は、当初は一種の漂流もののアプローチだったようだ。つまり、事故死等によって異世界に転移してしまった主人公がサバイバルのために様々な試行錯誤をするというタイプだ(異世界サバイバルもの)。それが次第に、現代人の知識(科学的知識やJRPG的パターンの知識)を活用して成功していくというスタイルに移行していったようだ(成り上がりもの)。さらには、転移/転生の際に特殊なスキルをあらかじめ与えられて、それを活用するドラマという路線も生まれた(チートもの)。
【 3. 西洋と東洋:男性向けと女性向け 】
時代的な違いだけではない。ジャンル間での舞台設定の傾向も大きく異なる。例えば、男性向けと見做されるジャンルでは、上記のとおり現代日本とJRPG的-西洋的な異世界が支配的であり続けている。「男性主人公が現代の学園で美少女たちと恋愛する学園コメディ」や、「男性主人公が異世界に転移して獣人ヒロインや天使ヒロインから惚れられるライトノヴェル」といったような作品はありふれている。
それに対して、女性向けに分類される作品は、時代設定や地理的設定にも独自性が見られる。例えば大正時代の日本、近代中国の後宮、中近東風の都市といったように。10年代以降の漫画やネット小説でも、女性主人公の作品にはそうしたシチュエーションが多い。00年代に遡っても、男性向けPCゲームが現代学園ものに集中していたのに対して、女性向けは(タイトル数は桁違いに少なかったにもかかわらず)アジア舞台や歴史ものに意欲的に取り組んでいた。
ただし、80年代から90年代に掛けては、男性向けの分野でもアジア風の舞台設定や文化的意匠はごく普通に用いられていた。有名なところでも、『DRAGON BALL』(1984-95)、『孔雀王』(1985-89)、『3×3 EYES』(1987-2002)、『封神演義』(1996-2000)など、アジア大陸系の伝奇趣味は比較的大きなプレゼンスを持っていた。
私見では、00年代の無国籍的な「美少女キャラ(萌え)」の時代を通じて、アジアン/オリエンタルな趣向への関心が、男性向け創作から失われていった。そして、10年代にJRPG風≒西洋風の世界像が支配的になってからも、アジア的趣向は後景に退いたままになっている。例外的に少年漫画では、アジア的/和風伝奇的なモティーフを用いた作品群が2020年代でも大きな人気を博しているものの、青年向け(とりわけ「萌え」系)では、アジア舞台やアジア系(中国やインドや中近東等)のキャラクターは極端に乏しいままだった。アジア系キャラクターは、ステレオタイプなチャイナ服キャラやサブキャラ、あるいはチャイニーズマフィアなどの悪役ばかりで、そのあたりの欠落はもったいなかったと思う(――残念ながら、オタク文化の一部にアジア蔑視や排外主義の動きがあったことは否めない。そうしたことも影響している可能性がある。韓国人キャラクターがほぼ絶無なのも、そういう懸念で手控えられてしまったのだろうし)。
そうした観点では、現代(10年代末以降)のオタクシーンで褐色肌キャラが大量に登場して、ごく普通に愛されているのは、これはこれで良いことだと思う。審美的な趣向の観点でも、創作的なキャパシティの広さという意味でも、社会的な健全さという見地からも。西洋中世&金髪キャラと三国志パロディばかりでは勿体ない。
アダルトゲーム界隈でも、2010年前後の数年間には歴史ものが散発的にリリースされていた。新しいネタに挑戦する意欲的姿勢とも言えるし、当時の学園恋愛系パラダイムに対するカウンターが意図されていた可能性もある。具体的なタイトルとしては、2006年『戦国ランス(Rance VII)』の頃から、『恋姫†無双』シリーズ(2007)、『桜花センゴク』(2010)、『戦国天使ジブリール』(2011)、『機関幕末異聞 ラストキャバリエ』(2015)など。ただし、取り上げられるのは日本の戦国と幕末ばかりで、残りはWWIIものの『大帝国』(2011)や、歴史もの特化ブランドによる源平もの、それから日露戦争とおぼしきロープライスSLG『亡国の戦姫』(2017)くらいに留まっていた。保守的に学園ものばかりを求めていたユーザーにも原因はあろうけれど……。
資料的な記事としては、別掲「キャラクターの国籍」を参照。
ともあれ、2020年代の現在でも、「男性向け」「女性向け」とされるものの間に大きな文化的相違が見出されるのは、面白くもあり、それぞれに勿体ないところもあると思う。近年の異世界ものの隆盛には、漫画やアニメで描かれる文物がヨーロッパ風一辺倒になりがちという問題があり、そう考えると、男性向け/女性向けの文化的相違は、多様性を確保するための安全装置として機能しているのだという視点で評価することも出来るかもしれない。
【 補論1 : 異世界ものとオリエンタリズムの関係? 】
上記のような異世界ものに対する批判的な意見として、「1) 異世界に現代の知識を持ち込むことによって活躍する(現地で成り上がる)のは、植民地主義的な欲望と結びついている」、「2) 中世的な異世界を、一方的に劣った未熟な文明(および住民)として描くのは、オリエンタリズム的偏見と通底している」、「3) 未発達な異世界に和食を持ち込んで賛嘆されるのは、自文化優位のナショナリズムの反映である」といったものがある。
相互関連するこれらの議論について、最初に結論を述べると、それらの主張は部分的には正しい(批判が当てはまる作品も存在する)が、異世界小説のごく一部の傾向を捉えているにすぎず、現在の異世界小説文化はそれらの懸念とはあまり関係が無いように見受けられる。以下、1)~3)のそれぞれについて、私なりの見解を記しておきたい。
1) 植民地主義(コロニアリズム)との関係について。
現代人主人公が現代社会の知識を持ち込んで活用することによって、中世的な異世界で成功していくという物語は、確かに存在する。例えば医療、衛生、測量、化学などの自然科学的知識や、たまたま異世界に持ち込むことを認められた現代的機械類、あるいは経済理論や料理などの洗練された現代文化や、モンスターの生態や弱点に関するゲーム的知識など。
たしかにそれらは、「劣等な異世界を現代文明によって一方的に支配する」という構造に類似するところがある。しかし、それは異世界小説分野の一般的性質ではない。そもそも、主人公が現代的知識を持ち込んで活躍する――俗に言う「無双する」――という図式は、かなり限定的な流行に留まったように見受けられる。このアプローチは10年代前半(?)までに一通り試みられたが、そうした思考実験は早々にやり尽くされて限界に達し、結局はごく一時的な流行で終わったように見受けられる。
また、異世界に単独でいきなり転移/転生する主人公は、その異世界社会の中で何の武器も持たず、いかなる共同体的サポートも受けていない、脆弱な存在になる。そうした脆弱さを補って、異世界サバイバルをひとまず可能にするための手立てとして、現代的知識が与えられているという側面もあるだろう。
現代食を披露して感心されるというのも、作中の一エピソード程度の軽い扱いであることが多い。つまり、そういった描写は、本筋進行の埋め草や箸休めのイージーなネタと見做されて、異世界ものの作者/読者の間ではむしろ軽視されがちなようだ(※バカにされることすらある)。異世界で学園に入学する「学園編」パートが批判されがちなのと同じように、現代食ネタは明らかに創意に欠けるネタだという理解は、一定程度広く共有された見方だろう。
さらに、生活をサポートする現代知識は、いわゆる「チートスキル」のアイデアに取って代わられていく。すなわち、異世界へ転生する際に、その世界を統御する神的存在(あるいはゲームマスター)から、サポート的な特殊スキルがあらかじめ提供されるというのが、異世界ものの主流になっている。こうした「スキル」アイデアは、当初は異世界の言語をすぐに使いこなせるための自動翻訳スキルなどから出発したと想像されるが、「○○スキルを持った条件で転生したら」という思考実験の自由度を大きく拡張することに貢献し、さらには、異世界でのスムーズな生活を展開させるための「チート」へと進んでいった。
結局のところ、主人公が現代的知識で活躍するという図式は、かなり限られた時期の流行にすぎず、それは早いうちにゲーム的な「スキル」へと置き換えられていった。つまり、自前の知識ではなく、ただ貸し与えられただけのかりそめの技能だ。また、現代的知識を活用する場合も、どちらかと言えば主人公の最低限のサバイバルスキルという消極的-補助的な役割である場合が多いように思われる。
2) オリエンタリズムとの関係について。
異世界での成り上がりものを描く際に、異世界が未熟で愚かで不合理な現地社会として描かれる場合もある。しかし、管見のかぎりでは、そういった露骨な蔑視的描写は、かなり少ない。そもそも異世界小説は、「現代社会で恵まれない人生を送ってきた主人公が、異世界で幸せに過ごす」という対比で描かれることが非常に多く、そうしたパラダイムの下では、当然ながら異世界は良い社会、豊かな社会、幸せな社会として描かれがちになる。例えば、食文化についても、「魔獣鍋やドラゴン肉の美味しさに主人公が舌鼓を打つ」といったように、異世界ならではの美点が描かれることは多い。
また、理論的な次元でも、問題がある。異世界は現実(実在)の地域ではない。まったくの架空世界である「異世界」の扱いに対してオリエンタリズム論を適用するのは、不当な類推的拡張であり、それはむしろオリエンタリズム論本来の問題関心から逸脱することになる。
そもそも、10年代半ば以降(?)の異世界小説は、「スキル」「ステータス」「レベル」などの概念を当然のように含んでおり、ゲーム的な虚構性が所与の前提のようになっている。つまり、リアルな存在としての「異世界」ではなく、あくまでゲームマスター(神)によってコントロールされている人工的な架空世界であることが、あからさまに示されている。換言すれば、きわめて人工的に仮構された、遊戯的思考実験のためのヴァーチャル空間にすぎない。そういった虚構性を前提とした「異世界」に対して、文化的優越の意識を持つなどということは、はたしてあり得るのだろうか? また、異世界の「神」が直接しゃしゃり出てくるということは、「主人公が絶対に抵抗できない上位存在が、現地サイドに存在する」ということだ。その観点でも、異世界に対するオリエンタリズムや植民地主義は、初めから頭を押さえつけられているような状況にある。主人公は、すでに支配者の存在する領地に仮住まいしているにすぎない。異世界は、新規獲得された植民地ではあり得ないのだ。異世界での成り上がりものは、オリエンタリズムなどの外的関心に由来するというよりは、想像上のJRPG的世界でメアリー・スー的に活躍したいというような分野内部での欲望と捉える方が適切であろう。
そういった意味で、オリエンタリズムを梃子とした異世界小説批判もまた、しばしば的外れであるように思われる。
3) ナショナリズムとの関連について。
異世界で現代食(とりわけ和食)を紹介して、現地の人々から賛美されるという描写は、たしかに頻繁に見かける。しかしそれは、ナショナリズム的(または植民地主義的)な優越感妄想の産物なのだろうか? 私見では、否だ。
現代食を異世界で再現するというエピソードは、しばしば描かれる。しかしそれは、第一義的には、主人公が現代社会時代のミニマルな楽しみを反芻的に再現するという位置づけで扱われることが多い。また、現代食を異世界に紹介して喜ばれるのも、文化的優越感の表現というよりは、「自分が好きなものが他人にも理解され、共有される喜び」として描かれている。そういったミニマルな幸福のために、現代食エピソードが用いられている。また、例えば「現代食を異世界で自信満々に紹介したが、現地の美食家からは二流扱いされて納得する」といった慎ましやかな描写のある作品も存在し、けっして現代食賛美の一辺倒にはなっていない。
もちろん、和食の魅力で異世界人たちの心を掴み、彼等から尊崇されて成り上がるといった路線の作品も、無いわけではない。しかし、そういった尊大な現代食啓蒙ネタは、異世界小説の膨大な作品数の中ではごく一部にすぎまいし、現代食以外の知識を利用する場合も多い(※なかでも、現代兵器を異世界や過去に持ち込む架空戦記ものは特に大きな問題があり、上記のような批判は妥当だと思う)。
また、異世界に導入するのは、「洗練された和食(例えば寿司)」だけではない。むしろ、パスタやカレーやハンバーガーやサンドイッチ、さらにはボルシチだったりラーメンだったりする。すなわち、和食に限らず多国籍的だし、高級食よりもむしろ日常的なメニューであることが多い。その意味で現代食紹介は、ナショナリズムや植民地主義との関連は希薄だし、基本的には、現代人主人公の日常生活の記憶の照り返しのような位置づけに留まっていると言うべきだろう。
食文化以外でも、主人公がそれまで属していた現代日本社会への愛着や、日本文化への帰属意識、元の美しき現代日本へ戻りたいという願望(未練)などは、めったに描かれない。そもそも、転生以前の生活はほとんど顧みられない(※物語展開が、転生以前の生活と強くリンクするような作品はきわめて稀だ)。そういった点に鑑みても、「異世界に日本食を紹介して称賛される」描写は、文化的優越のためではなく、徹底的に個人的な快楽やカタルシスを目的とするものと捉えるのが妥当であろう。
さらに言えば、食文化ネタは、漫画やアニメでも00年代後半から人気の一角であり続けている。異世界小説に限らない広汎なブームであり、異世界小説よりも先行する潮流だ。オタク文化全体を広い視点で捉えて、なおかつ歴史的経緯を見ていくならば、異世界小説における現代日常食への関心の高さは、異世界小説のオリエンタリズム志向や植民地主義的欲望――が仮に存在するとして――とは異なった由来を持つと考えるのが妥当だろう(※これについては、別掲記事「アダルトゲームと食の表現」で概観した。雑駁に言うと:80-90年代には料理人漫画が継続的に展開され、00年代には沈滞したが、2010年頃に再興し、10年代半ばはやや落ち着いたものの、10年代末以降のLN/アニメで再び頻繁に取り上げられるようになった、という感じだろうか)。
結局のところ、「現代食を持ち込んで異世界無双ばかり」のような捉え方は、異世界小説の広がりやオタク文化の広がりを無視した皮相的な観察であり、ごく一部の作品のみを一般化した歪曲的な議論にすぎない。そして、「異世界小説は現代社会理論から遅れた差別的な存在である」といった偏見に基づいた一方的な批判は、むしろそれ自体が、異世界小説文化の実態と固有事情と独自性と文化的価値を軽視しているオリエンタリズム的蔑視になっているのではないかという疑念が払拭できない。異世界小説で描かれている「異世界」の大半は、けっして素朴で安易な植民地候補などではない。むしろ、ゲーム世界やヴァーチャル世界のような虚構性を作中で明示的に取り入れた刺激的な世界であったり、SF的な設定によってその世界の存立をきちんと構築する誠実な営みがあったりする。そういった創造性の果実とジャンル論的な固有的価値を無視して論じることは許されまい。
【 補論2 : 異世界小説を、より広い文脈の中で 】
異世界小説を、オタク/サブカル/インドア系文化全体の中で捉え返すことによって、さらに興味深い特徴が見えてくるかもしれない。ここでは立ち入った議論はできないが、いくつかの動向に目を向けておこう。
i) 異世界小説の隆盛と同時期に、ブラウザゲームなどの分野では、擬人化/女体化の流れが存在した。外部の知識体系を貪欲に摂取しつつ、そこに自分なりの解釈を加えていくという活動だ。そういった動きを見ても、現代オタク文化に対して「異文化に対する一方的偏見の中に閉じこもる自己完結のオリエンタリズム的問題性」のようなものを向けるのは難しいように思える。
ii) また、時代的に遡ると、00年代は美少女ゲームがオタク文化の中心街にあった。そこにも異世界もののような構成を持つ作品は多数存在したが、いずれも一筋縄ではいかない仕掛けを伴っている。例えば『うたわれるもの』(2002)はアイヌ的な異世界(?)に現代人主人公が現れた作品だが、物語はSF的解決に行き着いた。また、『永遠のアセリア』(2003)は、典型的な異世界ものと言ってよいが、物語の最初から異世界の異言語がそのまま提示される――異世界のキャラクターたちは、主人公には理解できない架空言語を喋り続ける――といった徹底的な描写を行なっていた。さらに『英雄*戦姫』(2012)や『ガールズフランティッククラン』(2022)は、異世界をヴァーチャル寄りに位置づけた。
ちなみに、90年代から00年代にかけてはヴァーチャルものが人気ネタであり、これらの作品もその潮流に棹さしている。享楽的なゲーム空間の虚構性を大前提とした作品は、当然ながら、物語に対する冷めた視線――植民地主義的妄想に対して冷や水を浴びせる作用を――を不可避的に伴う。先述の「異世界におけるゲームマスターのような神」も、それと同様の作用をもたらしているだろう。
iii) 興味深いことに、00年代以来の美少女ゲームでは、異世界への「転移/転生」ではなく、対等で互酬的な「異世界交流」が主流だった。つまり、主人公一人に異世界に飛ばされるのではなく、現代社会にファンタジー的な存在が大量に出現したり、あるいは異世界と現代世界が繋がって相互移動できたりするというものだ。『ふぁみ☆すぴ!!』(2006)、『プリミティブ リンク』(2007)、『はなマルッ!2』(2008)、『恋神』(2010)、『あかときっ!』(2010)、『天色*アイルノーツ』(2013)など。月面社会からのホームステイを受け入れる『夜明け前より瑠璃色な』(2005)も、ここに含めてよいだろう(※実例については、別掲「異種族、異文化、異世界との交流」で紹介した)。
魔法が使えたりエルフがいたりする異世界が、現代世界と対等かつ平和的に交流する。主人公が異世界に単身訪れるのではなく、異世界からの集団移住を現代世界が受け入れる。そういうスタンスが00年代には支配的だった。そういった00年代の「平和的な互酬的交流」から10年代異世界小説の「孤独な異世界転移」への地滑りが何故起きたのかは、それ自体検討する価値のある論点だが、私見では、対象世界に対する支配欲が前景化するようになったというよりは、主人公サイドの孤独(現代社会における孤立)が強まったことの帰結であるように思える。その後、いわゆる「パーティー追放もの」が流行したが、これは従来型の「現代社会から異世界への移動という孤立」であったものが、異世界内部での「冒険者社会からの排除という孤立」へと読み替えられたものと捉えることもできるだろう。
このように「擬人化」「ヴァーチャル」「異世界交流」といった様々なブームが、異世界小説に先行して存在した。もちろんそれらが10年代以降の異世界ものと直結しているかどうかは議論の余地があるが、擬人化の健全な知識欲、ヴァーチャルものの虚構性意識、異世界交流ストーリーの公平性といった特徴も視野に入れつつ、異世界小説分野の文化的意義および個性については慎重に検討しなければならない。